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みんなちがって みんないい

大島みこべ...麦っ子畑保育園園長 ('95 年卒園文集より)



   私が両手を ひろげても
   お空はちっとも飛べないが
   飛べる小鳥は私のように
   地面(ぢべた)を速くは走れない

   私がからだをゆすっても
   きれいな音は出ないけど
   あの鳴る鈴は私のように
   たくさんな唄は知らないよ

   鈴と小鳥とそれから私
   みんなちがってみんないい

    「私と小鳥と鈴と」より

 

 

 これは大正末から昭和初期にかけて、彗星のように現われた童謡詩人、金子みすずさんの詩です。詩人、西条八十から絶賛され、将来を期待されなから26才の若さで天に帰った人でした。この原稿を書いている丁度この時、突然TVから美鈴さんの詩が流れてきて、びっくりしました。美鈴さんの小さな詩の数々が静かに読み継がれており、「小さなものに力がある」という言葉が聞こえました。少し前に本の中でこの詩を見かけて、卒園文集の主題はこれにしようと決めていました。麦っ子の保育の原点にピッタリ重なる言葉ですから・‥

 17年前、自宅の一室を開放して無認可保育園「麦っ子畑」をスタートする時、麦っ子を必要とする子なら誰でもどんな子でも受け入れようと決めていました。特に社会からはじき出された「障害児」についてはたとえとんなに重い「障害」を持っている子でも、一緒にやりたいと思っていました。さまぎまな子ども達が共に育ら合う中でおりなす日常の生活の営みにこそ、私が求める保育のあるべき姿が見えてくるはずでした。みんなが違っているからこそいいのです。

 私達の古くからの友人に、共に脳性マヒ者である夫婦がいます。二人は周りの大反対の中で子どもを生み、生活保護を受けながら地域の中で生活していますが、「普通 は世の中に迷惑をかけないようにと言って子どもを育てているけど、自分たちは迷惑をかけなければ生きてゆけない。迷惑をかけるのが当たり前だと思っている。だけど、あなたが疲れたり、都合が付かないときは出来ないと普通 に言ってほしいんだよ。・・そう言います。無理をして彼らに合わせようとしていた時、同じようにのんちゃんにも言われたことがありました。ショックでした。いつの間にか自分の方を高い所において「してあげる」姿勢になっていたのです。対等の関係だったら-家族に置きかえてみるとよく分かります-当たり前にやりとりしていることが「障害児」と「健全者」という構造にワク組みされていく中で無意識のうちに差別 感を持っていたのでした。

 ものごころがつくかつかない頃から、さまざまな人達とけんかしたり助け合ったりして、悩んだり笑い合ったり・・・いろんな感情を共有し合ってゆく場があれば“みんながちがっていて、だからいいんだよ”-そう言えるのではないでしょうか。

 今年は7人の卒園児のなかに、社会から「障害児」と判定された子達が4人もいますが、りゅうたい、たくや、ふみや、みゆきの4人は一緒に卒園します。何をするにも、どこへ出かけるのもみんな一緒でした。虹・太陽で動いていたので担任はタケノコ、ツル姉の2人でした。世間一般 の常識で考えれば全く手が足りない状態で保育をしていたことになります。どちらかが休めばひとりで4人の「障害児」をかかえながら、16人の虹太陽をみるわけです。<統合保育> という名目で「障害児」を受け入れている保育園では通常、比較的軽度の「障害児」1~2名に大人が一人配置されて複数担任で保育します。しかも更に、「障害児加算」という名目の手当までつきます。

 ずっと以前に私が勤務していた公立保育園では、3名の「障害児」のワクか設けられていながら、2名しか受け入れていませんでした。「障害児」担当の保母は一人なので、何かあった時、右手と左手に一人ずつしか手をつなげないから-というのが理由です。驚いたことに、これは現場の保母の声として市当局に要求して認めさせた結果 でした。そこにはクラスの中での他の子との関係が全く出てきません。「普通 児」集団を保育する保母と「障害児」のおつき保母とが分断されており、その発想の中では、子どもたちも見事に分断されています.しかも、入園が許可される条件として「軽度」の、普通 児に迷惑をかけない程度の「障害児」というおまけまでついていました。頭にきた私は、その合否をめぐる判定会議の内容を公表してしまい、市当局から処分され、結果 的に退職するという、もう一つのおまけまでくっつきました。けれどこれが世間一般 の常識です。もう20年くらい前の話になりますが、今でもあまり違っていないのではないでしょうか。普通 学級に「障害児」が入ったら困るのは「普通児」に迷惑をかけるからです。今の学校には、「障害児」おつき教師はいないからです。麦っ子のようにゴチャゴチャとみんなが一緒になって考えることに慣れていないのです。「障害児」だけでなく「困る子」を受け入れて共に同じ教室で過ごすのは、それこそ困ることなのでしょう。

 学年の太陽ぐみが7人中4人の「障害児」をかかえて虹ぐみと共に何でも一緒にやってきたことはすばらしいことです。麦っ子を必要として入園してきた子達だから、たまたま出会った7人が共に過ごすことは当たり前のことですが、やっはりすごいことでした。ツル姉もタケノコも大変だからとか、手が足りないからとか言って職員を増やしてほしいなんて一言も言いませんでしたし、周りの私達もそんなことは一度も考えたことはありませんでした。みゆきやふみやがオシッコやウンチをそこら辺でしてしまっても、ぬ れた床をオムツで拭くのは周りの子だったり、本人だったり、その場にいた大人だったりしましたし、ぬ れたパンツを取り替えるのさえ、虹・太陽の子ども達が手伝っていました。食事の時隣り合ったみゆきやふみやに、おいしそうなおかずを失敬されたり、途中で遊びに行くりゅうたいを連れ戻して座らせたり、ちっとも食べないたくやの心配をしたりしながら、だれも一緒に並ぶのがいやだなんて言いませんでした。ひとつひとつの場面 に、そこで居合わせた大人や子ども達が悩んだり、考えたりしながら日常を重ねていったのです。そういう日常の生活が当たり前になって繰り広げられている麦っ子で、みんなと出会って同じ時を過ごすことができたことを--幸せ--という言葉以外にどう表現したらいいでしょうか。

 人生は”出会い”で決まるといいます。

その人の人生を決定づける出会いが麦っ子にあったことを、私は素直に、心から喜びたいと思います。本当に、大人も子どもも、みんな私達は幸せでした。

 虹・太陽の担任だったツル姉、タケノコは更に幸せな時を過ごし、子どもたちと心を寄せあい、時を重ねてきたはずです。そして私はりゅうたい、たくや、ふみや、みゆきがそれぞれ一晩では話しきれない位 の悩みや悲しみをかかえながら麦っ子に入園してくれたことを喜ばずにはいられません。「よく来てくれたね!」-本当にそう言わずにはいられないのです。

 特に、みゆきに関しては途中で何度か麦っ子をやめる、やめない・・・ということもあって、卒園を迎える今、「ようやくここまで来れた」というのが実感です。首もすわらない状態でお母さんの背中におんぷされていたみゆきを「とにかく、いろんな子が周りにいることが大事だから」と、何度も家に足を運んだり、当時通 園していたサンホープに出向いたりして(サンホープはみゆきが普通の集団に入ることに反対していた)やっと入園することになったのですが、重いテンカン発作をかかえているみゆきの身体を心配するお父さん、お母さんの不安は今も続いています。一度など、麦っ子で海に連れていった時のことを心配するあまり,言い争いになり、「もう麦っ子はやめます!」と何日も来なかったことがありました。お兄ちゃんのタカだけを連れてくる日が続きました。つらそうなお母さんの顔をみるたびに家の中で過ごしているみゆきを想像して胸が痛くなりました・・・

 あの時麦っ子の中では意見が分かれました。「子どもの入園や退園を決めるのは親なんだから、もうこれ以上手が出せない」「麦っ子の保育を信頼してもらえないのなら仕方ないと思う」「無理して連れてきて、もし何かあったら・・・」--その通 りなのです。自分が親でないことを本当に歯がゆく思いました。(途中で退園する子が出るといつもそう思います)しかし、私はどうしてもここで麦っ子からみゆきがいなくなるのは嫌でした。大人も子ども達も、みんながみゆきを好きでした.タカしか連れてこないお母さんに「みゆき、どうしたの?」と聞いていたたろう達。あの頃の担任だった畑中サン、ペロちゃんの気持ち・・・みんな悲しんでいました。それに、今までの経験から重い発作を抱えた子達がほんのちょっとしたことで亡くなることがあることを知っていましたから、みゆきにはみゆきの大好きなこの麦っ子に通 い続けることが今、どうしても必要だと思ったのです。今でなければできない楽しいことがあるはずでした。

 そんな時、虹・太陽の懇談会が開かれました。その席でいつもはあまり話し上手ではないお母さんが、泣きながら「みゆきは麦っ子が好きなんです・・・お父ちゃんはやめるって言ってるけど私は連れてきたいんです!!」そう訴えました。その場にいたお母さんたちから「手紙を書いてみたらどうだろうか」「電話で話してみようか」と声があがりました。みゆきのお母さんの気持ちを支える動きが出たことがどんなにうれしかったことか---

 みゆきの家に行って玄関先で大声でお父さんとやりあった時、苦労してみゆきをみていた畑中さん、ペロちゃんの無念な思いはどうしても伝えたかったし、麦っ子にいるみゆきがうれしそうに笑っている顔を見せたかったし、みゆきが麦っ子で幸せそうに過ごしていることを何とかして分かってほしいと思いました。それより、何より私はみゆきが麦っ子にいてくれるだけでよかった・・・麦っ子にみゆきがいる---そのことが私にとって幸せだったし、意味もありました。だから、お父さんが「分かりました。職員の皆さんには申し訳ないことをしました。みゆきをお願いします。」と言ってくれた時、思わずお母さんの手をとって「よかったね」と2人で泣いてしまったのですが- あのあとタカに「ミコベとうちのお父さん、ケンカして泣いてたんだよ」っと言われたときにはちょっと恥ずかしかったけど、すぐそばでみゆきがにこにこ笑っていたから「いいの、いいの」なんて言ったのを昨日の事のように思い出します。

 みゆきは麦っ子を卒園したら座間養護学校に入学します。今までとは違ってヘッドギアを付けて、先生が一人ちゃんとつきます。お母さんは体験入学、説明会、と忙しくしていますが、私はそういうみゆきを想像するとやっぱり淋しい気がします。いつもみゆきのそばでゴチャゴチャ飛び回っていた子達がいなくなって、一人で自分の好きな所に歩いていって転んで大声で泣く-なんていうこともなくなるんでしようね・・・ 麦っ子みたいにあたり一面 にご飯つぶをふっとばしてペチャペチャにして両手つかみでご飯を食べるなんてこともできなくなるかもしれません。でもあの顔中、□だらけにして笑っていた笑顔で学校中をのし歩いてほしい。

 りゅうたいは長野県上田市の小学校、たくやは厚木の小学校、ふみやは立野台小学校、とそれぞれ普通 学級に通学します。3人とも就学時健康診断を受けなかったけとけど、たくやは教育委員会と結構シンドイやりとりがありました。りゅうたいの家もずいぶん前からいろいろ心配して、あれこれ相談したりするうちにOKが出てホッとしたら、お父さんの転勤が決まって長野へお引越しです。ふみやは麦っ子の学童にくることになりましたが、朝の登校班のことや学童までの送迎のことなど、心配が絶えません。

 それぞれに、入学式当日から学校側とゴタゴタするかもしれませんが、とうぞ頑張ってください。遠くても、近くてもいつでも麦っ子に相談に来てほしいです。一緒に支え合った仲間たちがいます。どんな時でも、ひとりで悩まないでみんなで考えていきましょう!!

 きのみ、まさと、たろうのことがあまり書けなくてごめんなさい。でも、3人はきっとミコペが感じたこと以上のことをみゆきたちからたくさん感じて、大事なことをいっぱい教えてもらったはずです。妻っ子で経験したひとつひとつは、他の保育園だったら絶対に得られなかった“いのちの重さ”です。今までのデカのようにはいかなかった当番の仕事、チームの動き、ジャギーや運動会、そして青部合宿・・・大人の誰からも教えられない貴重なやりとりをきのみもまさともたろうもしっかりと心と身体に刻みつけたと思います。

 今、中学生達がイジメられて、自分から命を絶っています。それこそ誰にも言えない切なくて苦しい思いがあったのでしょうが、みんなはどんなことがあっても人を死に追いやる側になってはいけないし、自分から死んではダメです。例えどんなことがあろうとも!!麦っ子の一日、一日はそんなヤワなものではなかったはずだから- 自分の周りの人達の思いが分る心に育っているはずだから- 7人が顔も身体も心もみんなちがっても、ちがうからこそよかったのだよね。ちがうことが大切なんだよね。一緒に生きたことが大事だったんだよね。

 OB達のように、いつでも、大きくなってからも麦っ子に遊びに来てください。みんなが遊びにきてくれたとき、元気な麦っ子でいられるように私達も頑張ります。

 りゅうたい、たくや、きのみ、ふみや、みゆき、まさと、たろう

 卒園おめでとう!!

注1.タケノコ・ツル姉  保母のあだ名。
麦っ子では、園長を含めて保母全員があだ名で呼ばれている。

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